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明治維新の立役者 第三弾 伊藤博文に思うこと!

幕末の長州藩士であり、博文もまた吉田松陰の松下村塾で学んでいる。
第一次長州征伐で長州藩が幕府に対し恭順の姿勢を見せると、晋作達に従い力士隊を率いて挙兵する。

後に語った言葉「私の人生において、唯一誇れることがあるとすれば、この時、一番に高杉さんの元に駆けつけたことだろう」

■志士時代の博文

■千円札の絵になった博文

初代内閣総理大臣を勤め、その後3回首相を務める。
当時の男子社会において女子教育の必要性をしっかり認識していた博文は創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会」の創設を明治19年(1886年)にした。

また【芸者好き】女好きは当時から非常に有名で、40度の高熱に浮かされている時でも両側に芸者二人をはべらせたという。
洗練潔白に見える博文もやはり人の子であった。仕事だけ出来てもダメ!適当に遊びも出来る人物こそが大きなことを成し遂げるのだ!
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テーマ : ひとりごと
ジャンル : その他

明治維新の立役者 第二弾 大久保利通に思うこと!

幕末、西郷や小松と共に薩摩藩の中枢で活躍した。明治維新後、明治2年7月に参議に就任したがこのころから西郷との意見が合わなくなる。その後、西郷は鹿児島に帰るのだが... ....
また現在の霞ヶ関官僚の元を作ったのが利通だったことはあまり知られていないようである。

■志士時代の利通


利通は公私の区別がはっきりしていた人物であった。内務省では威厳があり、靴音がしただけで職員は私語を慎み、利通の周りの人々も意見を申し仕上げることが出来なかったようである。もしかすると意見を聞かなかったのかもしれない。
おそらく孤独で相談する相手もいなかっただろう。権力者や英雄は昔から孤独である。そんな利通も家では子煩悩で家族思いの良き父親だったようで、利通が帰宅すると子供達が先を争うように玄関まで向かい出たという。

■参議時代の利通


西南戦争前、西郷が参加していることが分かると鹿児島で会談を希望していたが叶わなかった。西郷の死を聞くと号泣し【おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が】また、西南戦争終了後【自分ほど西郷を知っている者はいない】と言っている。意見は違っていたが、やはり心の友であったのだろう。

上辺(うわべ)だけではなく意見や相談が率直に出来る友を作れ!どんなに優秀な人物でも一人では何も出来ないのだ。


by満太郎

テーマ : 生きることは学ぶこと
ジャンル : ライフ

明治維新の立役者 第一弾 小松帯刀に思うこと!

帯刀は薩摩藩のエリートで、周りには西郷隆盛・大久保利通・坂本龍馬・長州の井上馨・伊藤博文・桂小五郎など蒼々たる面々がづらり!
なかでも坂本龍馬が昵懇(じっこん)の仲だった。亀山社中(海援隊)設立を援助したり、のちの妻になるお龍の世話までしている。

■優しさが感じれれる帯刀の写真


島津久光に認められ側近となり、大久保利通と共に藩政改革に取り組み、後に家老職に就く。
帯刀は横の繋がりを大事にした武士であった。それが功をそうして薩長同盟に繋がったのだ!
また禁門の変では戦いの後、長州藩の兵糧米を戦いの渦に巻き込まれて苦しんだ京都の人々に配っている。心根の優しい人物なのがよく分かる。

■小松家の家系図

話しは変わるが、帯刀の正室はお近である。7歳年上で子供が出来なかった。そのためか、お琴を側室に迎え入れる。お近は出来た妻であった。帯刀の死後お琴の産んだ息子を養子にし育て、先に死んだお琴を小松家の墓に埋葬している。
まっことあっぱれだ!!心の広いお近に感服してしまった。

■小松家の墓

小松家の菩提寺である日置市日吉町吉利の園林寺(おんりんじ)にある墓。今も帯刀の側にお近とお琴が眠っている。

世の独身男性諸君!持つならお近のような妻をめとれ!良い妻を得れば成功したも同然である!


by満太郎

テーマ : 気になる!
ジャンル : ライフ

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